番外編:髙島信二”きゅうてぃぱんちょす”参加まで(編集中)

こちらの投稿は、髙島が思い出せる限りをただメモを書く様に振り返っています。編集が終わる事はありません、番外編としてひっそり続けますので絶対に見ないでください

・1960年10月23日 生まれは横浜市神奈川区白幡南町 町内産院

・ビタミンDの不足により、0〜1歳の殆どを病室で過ごす。医師から「知恵遅れになる」可能性が高いと宣告されたが、そこまでではなかった様だ ww

〜何となく小汚い昭和の児童〜

・3学年上の兄と5学年下の弟あり

・まだ野犬が居るようなジャリ道の路地裏、長屋の六畳一間に5人で生活

・路地を出ると、やはり舗装されていない表通りで缶蹴りや泥巡などをやって遊んだ。近所のガキ大将は”すす”、確かススムって名前。身体がデカくて凶暴、あまり関わりたくなかった。それに対し少し年上のヒーローもいて、彼と遊ぶのは楽しかった。通称は”ワッカ”で本名は鈴木末吉くん、優しくて面倒見のいい街の人気者。その”ワッカ”ちゃんがTBS「ぎんざNOW!」に出て来た時は驚いた、なんと”素人コメディアン道場”で10週勝ち抜き二代目王者に!。1975年にザ・ハンダース結成、1980年の解散後はアントニオ猪木のモノマネなどで活躍し清水アキラと共にフジテレビ「ものまね王座決定戦」にも出演した。

・白幡南町と白幡西町の境あたりに、「うさぎ屋」という駄菓子屋があった。1番の思い出は”スパイ手帳”、水溶紙で出来た「消えるスパイメモ」には驚いた。変装用のシールやピストルの分解図など、少年達の心を正に鷲掴みに・・・

〜スパイ手帳〜

・白幡幼稚園に通っている頃、母親に手を引かれ横浜駅近くのYAMAHA音楽教室へ。オルガン教室担当のササノ先生は優しく指導してくださった記憶があるが、なかなか上達せず挫折・・・あの頃しっかり音楽と向き合っていれば、絶対音感も譜面の読み書きも身についたのかも。でもたぶん、その頃はまだ音楽を好きになれていなかったんだと思う。典型的なタラ・レバの話

・横浜市立浦島小学校2年の時、父親が新居を建てた。学区外の白幡仲町に移り住むが同校卒業まで「越境」にて通学続行、学校までの距離は長くなったけれど憧れの「自室」が手に入り浮かれた

・小学校時代はかなり内向的、今で云うイジメにあっていたのかも知れない。外遊びは激減し、極少数の友達とプラモデルや鉄道模型で遊ぶ。唯一名前を覚えているのは外間くん、近くの社宅に住んでいてよく遊んでくれた。今頃どうしているかな・・・お気に入りだったアイテムはプラモデルなら西ドイツのレオパルド中戦車、鉄道模型(HOゲージ)なら国産電気機関車のEF66

〜西ドイツ レオパルド中戦車〜

〜電気機関車 EF66〜

・音楽の授業は苦手で成績は5段階の1か2、全員で同じメロディーを歌う”斉唱”が性に合わず勝手にハモリを作って歌っていた。ジャック天野の片鱗が現れ始めたか・・・1〜4年は女性の担任、5年生から工藤正孝先生という男性担任に替わった。駒澤大学出身で体育系の教師、今までお世話になった「優しい女性教諭」とは一味も二味も違う。先生はひ弱な僕を”高ちょう”と呼び「高ちょうは面白いよ、そのままでいいよ」と励ましてくれた、お陰で苦手だった体育も恐れなくなった気がする。人格形成上の恩師と呼べるのは工藤先生・・・その出会いから30年後、今の住居に引越しをして娘は小学校を転校。その時、校長先生として赴任して来たのがその工藤先生だった!。こんな奇遇があるだろか、それほど珍しくはないのかも知れないが「運命」という言葉はこんな所にも転がっていた。正に人生は転がる石の如く ...

          〜浦島小学校のカメの子すべり台〜

・小学校の同級生で、ただ1人名前も顔も一致して思い出せるのは高津正代ちゃん。見た目は陽に灼けた大原麗子というイメージ、活発で賢い女子だった。僕もその頃だけは割と優秀だったので(笑)、彼女とテスト争いを繰り広げていた。負けたらちゃんと悔しがってくれる、聡明な人・・・忘れたくないな〜でもいつか忘れちゃうんだろうなぁ(^。^:

・初めて買った(買ってもらった)レコードは「Lovers Of The World/JERRY WALLACE」だと記憶している、男性化粧品マンダムのCMで使用されていた。テレビに映っていたのはチャールズ・ブロンソン、強い男に憧れていたフシがあるね ww 映画「荒野の七人」は今でもたまに見たくなる

・段々と積極性が出て来たか、小学6年で兄の部屋に転がっていたガット・ギターを触り始める。こちらも兄の所持品だったギター・コード・ダイヤグラムなる小さな本で、コードの押さえ方を覚えた。やはりFを押さえるのは厳しかったけど根性で何とかクリア♬

・夜中に度々咳き込む、喘息の一歩手前。喘息性気管支炎の診断を受けアレルギー治療を行う、体質改善による根治を目指した。毎週交互の肘窩(ちゅうか)に注射、辛かった・・・最近になって分かった事として少し驚いたのが、杉山くんもまた高校時代に似たような治療を行いアレルギーを克服したと聞いた。だからナニ?という話ではあるのだけど(^。^:健太も喘息には苦しんでいたし、何なんだろう昭和30〜40年代。けっこう空気悪かったんかなぁ🤔

・小学校卒業前に初めて買ったもらったギターは、質流れ品のフォーク・ギター ¥4,500也。弦高が高く弾きづらい、でも良い練習にはなったのかも知れない

浦島小学校からただ一人、横浜市立神奈川中学校に進んだ。父親からの「身体を丈夫にする」という勧めで剣道部に入部、ここでも毎日の厳しい練習に耐えたが、練習と云うよりシゴキ・・・

・おそらく中学に上がってからと思われるが、ラジカセを買ってもらった。特徴のある機種だったので調べたらSONY CF-1980と判明、写真もネットにゴロゴロ転がっている。外部入力端子/マイクミキシング機能/BASS・TREBLEの音色調整/クロームテープ対応/5cmツィータ付き16cmモノラルスピーカーなど・・・「自分が音楽を作る」楽しみ方を提案した名機の定価は当時で42,800円、どこにそんなお金があったのかメチャ不思議。正に高度成長期、親父は身を粉にして働いていたのだろう・・・

〜ラジカセ SONY CF-1980〜

・見知らぬ同級生達にも慣れ始めた頃、同級の吉浦くん・池上くんと音楽で意気投合「フォークソングクラブ」を設立した。昼休みはその3人のギターを囲み、男女を問わずフォークソングの大合唱になった

・中学1年、11/30に長患いの父親が他界

・タガが外れたのか?、中学2年でビートルズ/ヴェンチャーズのコピーバンド”BATMAN”結成。メンバーは吉浦(ドラム)池上(リード・ギター)髙島(サイド・ギター)でベースレス!、使用したGRECOテレキャスター・デラックス(黒)は兄のモノを拝借

〜GRECO テレキャスター デラックス〜

数曲のオリジナルがあったという証言をくれたのはドラムの吉浦くん「髙島が最初に作った曲は”地球よ”」、僕も彼も歌い出しのメロディーと「地球よ」という歌詞しか思い出せなかった。が確かにそんな曲があったなぁ・・・(´-`).。oO

・その年秋の文化祭(神奈川中学では文化展と云った)、体育館で初めてのバンド演奏を試み盛況を得る。同中学校としては革命的な催しとなった。中学3年で初めて学外演奏、場所は神之木台青少年センター

・その頃通っていた学習塾は仲手原塾、塾長の大竹先生は数学が専門。黒板にフリーハンドで真円を描く事ができた、その特技は生徒達を魅了し小さな塾ながら人気があった。そこで知り合ったのが六角橋中学の柳沢くん(通称ヒデ)、お兄さんがトランペッターで本人はサックスを吹くというジャズ家系。音楽の話題で盛り上がり帰りを共にするようになると、まだ知らない世界をいろいろ教えてくれた。六角橋商店街まで足を運び、当時は存在していたミスター・ドーナッツにも初入店。ハニーディップをブレンド・コーヒー(ブラック)で頂くのが定番だと云った、コーヒーをブラックで飲む習慣がなかった僕にとって甘い!苦い!甘い!苦い!の連続でしかなかったのに・・・それを、僕は今でも実践している

〜ミスター・ドーナッツ ハニーディップとホット・コーヒー〜

・六角橋商店街の出入口、交差点を渡ってスグの所にあった甘味処”吉田屋”。その次男坊で柳沢くんと同じ六角橋中学に通う吉田健二くんとの出会いが、僕のその後の人生に大きく関わってくる。その出会いについては別投稿”吉田ケンタと新横浜呑み_230607@non da clair”をご参照くださると、ディテールまでお分かり頂けると思います

・剣道部は先輩OBのシゴキが激しく強くもなれず、バンド活動と反比例するようにフェード・アウト

・中学卒業前、お年玉貯金などを掻き集め初めてのエレキ・ギターを購入。機種はGRECO LP-800 チェリー・サンバースト、場所はお茶の水駅近くの谷口楽器。この国産レスポールは1975年製、定価よりも高い資金を投じてオーバーホールを施した。今でもライブやレコーディングで活躍してくれている、正に相棒♬

〜GRECO LP-800〜

・時系列が明確ではないが・・・木台のライブを見に来た吉田健二くんが、吉浦(ドラム)と髙島(ギター&ボーカル)をスカウト。その後、六角橋中学の田口(ベース)出口(ギター)吉田(ギター)と合流しハードロックバンド”VEGA”を結成。それぞれ高校進学を機に、少しずつレパートリを増やす

・ドラムの吉浦と共に県内公立高校に進学。まだ創立8年目の言わば新設校であった為、いわゆる”軽音”は存在こそしていたが活動実態がなかった。練習場所として放課後の視聴覚室を確保したかったので顧問教師を擁立、新入生の同志を集め”軽音楽同好会”を改に設立した。32年後の母校に娘が入学し”軽音”に入部するとは・・・まさか我が子が大後輩になるとは、夢にも思わなかった

〜某 神奈川県立K高校〜

・高校の「学内バンド」として結成したのは”SWEET HOME”、メンバーは吉浦(ドラム)吉成(ベース)角田(ギター)髙島(ギター)。レパートリはPRISM・四人囃子など、主に国内のインストゥルメンタル・バンドのコピーなど。

・因みに”SWEET HOME”ベースの吉成利雄とギターの角田典彦は、”きゅうてぃぱんちょす”にも一時在籍してライブやコンテストでの演奏経験がある。特にノン君(角田典彦)にはお世話になった・・・僕が一身上の都合により”きゅうぱん”から離脱した時、厳しいポプコンの関東甲信越大会を勝ち抜く為に彼がメンバーとして招聘されたのだ。エレキ・ギターのツイン・リードが特徴的だった「乗り遅れた747」を、十分な準備は出来ていないであろう彼が見事に演ってのけた。中野サンプラザで行われた大会を勝ち抜き、あとは本選会の”つま恋”を残すのみ。となったタイミングで、彼は僕にこう告げた「何があったか知らないけど髙島はバンドに戻るべきだ」・・・この言葉がなければ、今こうしてブログなんぞを書くようなコトにはなっていないのだろう。人生は摩訶不思議、成るようにしか成らないとは強ち間違いではないねっ
〜SWEET HOME〜

・生涯を通じて最も人気があったシーズンは高校2年、先輩バンドのサポートや
吹奏楽部を含め8つバンドを掛け持ちした。文化祭ではアッチの教室からコッチの教室、はたまた体育館や中庭へと。ギターと機材を持って走り回った

・並行して参加した「学外バンド」は先出の”VEGA”、主にブリティッシュ・ハードロックと国産ロックをコピーして演奏した。幾度かメンバーチェンジを繰り返し、最終的には吉浦(ドラム)田口(ベース)吉田(ギター)山崎(キーボード)髙島(ボーカル&ギター)で落ち着いた。実はこの”VEGA”で、僕は初めて「クビ」を経験する事となる。この種の音楽ではギター・リフが楽曲の肝であったりするので、なかなかキーを下げてはもらえない。現代の様に半音単位でチューニングできる機材もなく、バンド全体での半音下げは困難だった。必死に原曲キーで歌ったが、どうもに音程が低いと評価されてしまった。代わりに加入したボーカルはノブ、こちらは高い声が自慢だったが音程はノーコントロール。どちらがマシなのかという検討の結果(笑)髙島がカムバックするという落ちになった、因みにこの”VEGA”のメンバーは全員がプロ・ミュージシャンへの道を選択している・・・

吉浦 芳一(ドラム):尾崎 豊&Heart Of Klaxon

田口 政人(ベース):尾崎 豊&Heart Of Klaxon

吉田 健二(ギター):杉山清貴&オメガトライブ

山崎 透(キーボード):吉川晃司&PAPA

高島 信二(ボーカル&ギター):杉山清貴&オメガトライブ

バンド名にみな ”&” が付いている所が笑える ww

〜第一期VEGA@横浜野外音楽堂〜

・現在の横浜スタジアムが建設される前、そこには横浜野外音楽堂があった。横浜のアマチュア音楽をリードしていたスタジオ・スリーの山本氏は、スタジオ・スリーと同じフロアにあったライブハウス”横浜放送局”の出演者達に声をかけ横浜野外音楽堂でロック・コンサートを開催した。そこで顔を合わせる事となったのがスカイロードのボーカル:杉山くんと、オフェンダーのドラム:平手くん。後に”きゅうてぃぱんちょす”結成の運びとなるが、それはまだ先のお話・・・

・このコンサートは、アマチュア・バンドの為のイベントだったので予算もそれなりに限られる。機材の搬出/搬入も、出演する高校生たちが手伝う事になっていたのだが恐れていた事態になってしまった事は忘れられない。通称「よっちゃんサンド」・・・誰が名付けたかは不明だが、思えば笑えないジョークだった。終演後に舞台に設置してあった大型スピーカーを搬出する際、階段を踏み外し転落。機材と地面との間に人が挟まれると云う事故が起きた、その犠牲者はVEGAのドラマー。僕の中学からの友達、吉浦くんだった。すぐに救急車が呼ばれ・・・忘れもしない磯子の病院まで、付き添いとは云え救急車に乗ったのは初。処置をしてくださった医師から「脳圧が上がって危険な状態」と告げられた時は生きた心地がしなかった、病院で一晩泊まったような帰ったような。その後どういう行動をして、楽器を持って帰宅したのか全く覚えがない。幸い一命をとりとめ回復に向かったと聞いた時はもう、しばらく動けなくなった気がする。
吉浦くんの証言により「よっちゃんサンド」事件が発生したのは上記のチケット写真”YOKOHAMA HIGH-SCHOOL Rockn' Roll Fes'”だった事が判明した。ホント笑い話で済んで良かった・・・

・高三の頃やっていたのは女子大生をリード・ボーカルに迎えたバンド”クリスタル・レイク”だ、このバンドも含め受験のためにバンドは次々と解散となる。でももう何だったんだろうなぁ、母親には泣かれたよね。男三兄弟全員を大学にやる、というのが37歳で未亡人になった彼女の夢というか目標だったのだろう。それを僕は踏みにじった、悪気はなかったけど結果論としてはそうなる。本当にクズだった、まったく人生なんて考えてなかったし根拠のない自信と欲望に支配されていた。

・そんなこんなで勉強もそっち退け、バンド三昧の高校生に受験の試練を乗り越えられるハズもなく。浪人確定で見事に予備校行き、高田馬場にある何だっけ、早稲田なんちゃらという・・・まぁいいやそんなの。あれは本当に親不孝をした、その予備校さえろくすっぽ行かずに牛丼ばかり食べていたなぁ。確か吉野家で牛丼一杯400円、今とあまり変わらない。ひょっとして卵より優秀なんじゃない?この45年で殆ど値上がりしてないんだから・・・
〜吉野家 牛丼並〜

・そんな馬鹿げた日常を打開するような話が、吉田健二からもたらされ”きゅうてぃぱんちょす”結成への足がけとなる。





=鋭意編集中=



 





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